erlenhof.gif(587 byte) ネレイーデ物語〜Nereide - Geschichte einer Wunderstute〜

4. 欧州最強牝馬決戦

 世代頂点を極めたネレイーデの次なる目標は、古馬との対戦だ。ここで当時の慣例なら、ダービー2週間後のベルリン大賞(Großer Preis von Berlin, 2600m, 現ドイツ賞)へ向かうことになるが、陣営は彼女に一息入れさせた。そのベルリン大賞では、前年のダービー馬シュトゥルムフォーゲルが、ペリアンダー、イドメネウス、ヴィーナーヴァルツァーのダービー組を蹴散らし、古馬の貫禄を示す2連覇を果たした。但し一方で、ダービー路線を捨て、ハンザ大賞で早々に古馬との対戦にシフトしていたヴァーンフリートが、シュトゥルムフォーゲルに¾馬身差まで詰め寄る2着に健闘したことは、記憶に留めておいてよい。彼はその後、バーデン大賞(Großer Preis von Baden)と独セントレジャー(Deutsches St.Leger)を制し、秋を盛り上げた1頭となる。

 而してネレイーデ陣営は、この古馬大将シュトゥルムフォーゲルと、成長著しいヴァーンフリートを、7月26日ミュンヘン競馬場、ブラウネス・バント(Das Braune Band von Deutschland, 2400m)で迎え撃つことになる。しかしミュンヘンには、更なる強敵がやって来た。フランス牝馬コリーダ(Corrida)である。

 コリーダは、大種牡馬トウルビヨン(Tourbillon)をもってフランス馬産界に革命的飛躍をもたらしたマルセル・ブーサック(Marcel Boussac)氏の所有馬で、前年3歳時は、当初ニューマーケットの厩舎に預けられていた。しかし環境が合わなかったせいか英国では結果を残せず、夏にフランスに戻ってから頭角を現し、凱旋門賞で僅差の3着後、マルセイユ大賞(Grand Prix de Marseille)を快勝、フランスのトップホースに名を連ねる1頭となった。明け4歳のこの年は、春先こそ精彩を欠いたものの、5月にロンシャンで勝利すると調子を上げて連勝。続けてアスコットへ遠征し、ハードウィック・ステークス(Hardwicke Stakes)を制す。そこで破った相手には、同年のコロネーションカップ(Coronation Cup)覇者プラッシー(Plassy)も含まれていた。更に帰国後、共和国大統領賞(Prix du President de la Republique、現サンクルー大賞)でジョケクルプ賞(Prix du Jockey Club、仏ダービー)2着のヴァトラー(Vatellor)を相手に楽勝し、コリーダはフランス最強牝馬として充実の極みに達し、勇躍ミュンヘンへと乗り込んできたのである。

 対決の舞台となるブラウネス・バントは、1934年ミュンヘンに新設されたばかりの高額国際競走である。当時のドイツでは、ベルリン郊外のホッペガルテン競馬場で殆どの重要レースが施行され、その他ダービーのハンブルク競馬場、バーデン大賞のバーデンバーデン競馬場が主要な地位を占めていたが、ドイツ第3の都市にして旧バイエルン王国の首都、そしてナチ党発祥の地であるミュンヘンには名高いレースがなかった。そこで新設されたのがこのレースである。創設を主導したのは、クリスティアン・ヴェーバー(Christian Weber)という一人のナチ幹部党員である。ヴェーバーは、泡沫政党時代にボディーガードとしてヒトラーと"Du"(お前)で呼び合う仲であった古参党員(党員番号6番)で、20年代後半の党勢拡大期にミュンヘン市議会ナチ議員会派会長、政権獲得後には上バイエルン郡議会議長として権力を握り、1936年には親衛隊旅団長の任も与えられた人物である。同時に乗馬馬主及びサラブレッド生産者経済連盟総裁、及びミュンヘン競馬協会理事長の地位にも就いた。元々第一次大戦前は農場で馬の世話をしていた低所得者層出身で、古参党員という立場から上り詰めた政治的地位以上に、彼は趣味の分野で水を得、競馬振興に大いに力を注ぐ。ナチ時代に競馬興行が盛り上がったのは、それ以前から蓄積された内国産馬のレベル向上が主因と言えるが、同時にヴェーバーが果たした役割も大きい。彼は新たにイザーラント牧場(Gestüt Isarland)を創設する等、馬産分野にも積極的に係わった。この牧場は今日、欧州の重要種牡馬モンズーン(Monsun)の生産地としても知られるところである。もっとも、後に占領したフランスからドイツが多くの馬を略奪したという有名な話にも、このヴェーバーが絡んでおり、略奪馬は当時のイザーラント牧場にも多く持ち込まれている。

 「茶色い襷」ブラウネス・バント(Braunes Band)というレース名は、ダービーの通称「青い襷」ブラウエス・バント(Blaues Band)を意識して付けられたのは明白だ。ナチ党色の茶色をもってダービーを上回る地位を目指し、賞金総額もダービーの7万マルクに対し10万マルクが用意された。レースは十分に成功したといえ、1939年にゴヤ(Goya, 仏)、アントニューム(Antonym, 仏)、プロクレ(Procle, 伊)の外国馬が1〜3着独占したことなどは、ある意味このレースに対する国外からのモチベーションの高さを証明していた。しかし戦後、そのナチ色の強さゆえに、僅か10年の短い歴史を以って廃止される。創設者ヴェーバーもまた、ナチ幹部として占領米軍に拘束され捕虜収容所へ送られる途中、護送トラックが転覆事故を起こし、呆気くその生涯を閉じたという。

 1936年に話を戻そう。ベルリンオリンピック開幕を5日後に控え、ナチ時代にあってこの夏は最も華やぎに満ちた瞬間であったに違いない。ミュンヘン市内では、ブラウネス・バントに合わせ、中央駅近くのテレージエン公園でナチSS騎馬隊の行軍式が催される等のイベントで、レース開催を盛り上げていた。当日は、政府高官としてノイラート外相(Konstantin Freiherr von Neurath)、ブロンベルク国防大臣(Werner von Blomberg)、パーペン特任大使(Franz von Papen)らが競馬場に臨席している。もっとも偶然であろうが、彼らは伝統保守派の非ナチ政治家で、後にヒトラーの不興を買い、罷免される者たちばかりである(パーペンは既に副首相から降格された後)。ホッペガルテンにはよく顔を出していたゲーリンクやゲッベルス(Joseph Goebbels)といった競馬好きナチ幹部も、さすがに五輪開幕を直前にしてミュンヘンまでやって来る余裕はなかったとみえる。

 良馬場で迎えた大舞台には、10頭の馬たちが集まった。ネレイーデにペースメーカーのグラウコスを帯同させたエーレンホフ陣営が統一オッズ1・8倍で1番人気となり、コリーダの3.3倍に対し、ミュンヘンの観衆は自国のヒロインに大いなる期待をかけた。続いてドイツ古馬大将のシュトゥルムフォーゲルが4.7倍、ヴァーンフリート、ザイネホーハイト(Seine Hoheit)の2頭出しで臨むレットゲン陣営が9.4倍をつけ、残りは30倍以上というオッズで発走時刻を迎える。

第1コーナー。先頭グラウコスの内直後にネレイーデ。コリーダは中団グループ最後方を追走。

 最内からゴールトターラー(Goldtaler)、コリーダ、アウソニウス(Ausonius)、ネレイーデと並び、ヴァーンフリートとシュトゥルムフォーゲルは外目にポジションを取った。イレ込むコンテッシーナ(Contessina)が落ち着くのをしばし待って、バリアが上がる。全馬一斉にきれいなスタートを切った。最も好スタートを切ったネレイーデが一旦先頭へ飛び出すが、すぐにグラウコスが前に出てペースを作る。2番手ネレイーデの外にアーベントシュティムンク、その後ろにコンテッシーナ、アンソニウスが続き、コリーダはザイネホーハイトの外に並んで、少し離れた後方グループに控えた。更にシュトゥルムフォーゲルがコリーダの後ろに位置し、ヴァーンフリートとゴールトターラーが最後方という態勢で、馬群は左回りコースの最初のスタンド前を通過した。向正面に入り、ちょうどレース中間地点を過ぎた辺りでグラウコスの脚が鈍ると、3番手にいたアーベントシュティムンクが先頭に躍り出る。ネレイーデはピタリとその後ろにつけ、コンテッシーナが続くその直後へ、後方グループにいたコリーダが徐々にポジションを上げ詰め寄ってきた。シュトゥルムフォーゲルはこの辺りで様子が怪しくなり、先団との差が広がり始める。馬群はアーベントシュティムンクを先頭に、最後の直線へと向かった。

 最終コーナーを回ると、鞍上グラプシュは迷うことなくネレイーデにゴーサインを出し、逃げるアーベントシュティムンクを交わして、後続を引き千切りにかかった。コリーダと、後方からポジションを上げてきたヴァーンフリートがそれを追う。直線半ば、コリーダが更に脚を伸ばすと、ヴァーンフリートはそれに付いていかれなくなった。勝負はネレイーデとコリーダ、非凡なる2頭の牝馬に絞られる。その時、ネレイーデが徐々に外へ斜行し始めた。コリーダの鞍上エリオット(C.Elliott)は、ネレイーデのこのロスを逃さずグッと差を詰める。残り100m。無敗のヒロインに襲い掛かる危機にスタンドから悲鳴が上がる。だが次の瞬間、その悲鳴は大歓声へと変わった。体勢を立て直したネレイーデは、再び自らのエンジンに火を点け、一気に加速したのだ。コリーダには、一旦捕まえかけたライバルに再び手を伸ばすだけの力は残っていなかった。ネレイーデはそのまま1馬身差でゴール。彼女は欧州最強と名高いコリーダを力で捻じ伏せ、10戦無敗の快挙を成し遂げたのであった。

 ミュンヘン競馬場は、ドイツ馬産界が生んだ稀代の名牝を目の当たりにして沸きに沸いた。そしてレース直後、この勝利を伝えるために、ドイツ全土へ向けて伝書鳩が一斉に放たれたという。だが馬主テュッセン・ボルネミシャは、レース後間もなく、ネレイーデの引退を表明した。現役続行させることで、彼女の輝かしい戦歴に傷をつけることがあってはならないと判断したのである。これを受けたウニオンクラブは、「ダービー、ブラウネス・バントを含む10戦全勝という戦績は、まさしく唯一無二の成果である。」と褒め称え、テュッセンの決断を(ネレイーデ引退に対する心の)僅かな痛みを感じながらも歓迎するとのコメントを発表した。

 ネレイーデはこの時点で既に、ドイツ競馬史に名を刻むに相応しい存在であった。だが彼女の評価は、この後の数ヶ月間で更に高められていくことになる。コリーダの活躍である。ブラウネス・バントの1ヵ月後、まずオステンド国際大賞(Grand International d'Ostende)で、アガ・カーンIII世所有の英ダービー2着馬タージアクバル(Taj Akbar)を3馬身差に突き放して勝ち、そして10月4日、凱旋門賞を1.8倍という圧倒的人気を背負いながら力の違いを見せつけ、ロワイヤル・オーク賞(Prix Royal Oak)勝馬ファンタスティック(Fantastic)以下を降したのである。また、その直後に出走したニューマーケットのチャンピオンステークスこそ、スロー展開に末脚を活かし切れず3着に敗れたが、その後前年制したマルセイユ大賞を連覇したことで、コリーダは欧州最強馬の地位を名実共に確かなものとした。そのコリーダが調子のピーク時において唯一エクスキューズの効かぬ敗北を喫した相手が、ネレイーデということになったのである。確かにブラウネス・バントにおける斤量は、3歳ネレイーデの53kgに対し4歳コリーダは60kgで、コリーダ陣営からすれば十分エクスキューズとなり得るところではある。しかし7月下旬の混合戦において、これは純然たる馬齢斤量差とされていたものであり、そこは全く恥ずべきものではないというのがドイツ側の見解だ。加えてコリーダの主戦騎手エリオット自身もまた、「ネレイーデが直線勝負でよれずに真っ直ぐ走っていたら、コリーダはもっと簡単にやられていたはずだ。こんな風にコリーダに勝てる馬は、ヨーロッパには他にいない。」とレース後にコメントしており、オステンド国際大賞勝利後も同様の評価を繰り返していたという。

 コリーダは翌年も現役続行、再び訪独し、帝都大賞(Großer Preis der Reichshauptstadt, 前ベルリン大賞)でシュトゥルムフォーゲルと同年ダービー馬アーベントフリーデン(Abendfrieden)を降して、敵地リベンジを果たしている。そしてオステンド国際大賞と凱旋門賞の2連覇も達成し、コリーダは現在も重賞レース名に残るほど、フランス競馬史に大きくその名を刻み込む名馬となったのである。このコリーダの活躍によって、引退後のネレイーデの評価も追って更に高められる結果となったのである。



エピローグ 産駒たちとその時代

はしがき − 4


 

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