その二

両手を広げて

Royal Fantasy




 2003年4月21日ケルン第4レース、3歳未勝利戦。このレースの出馬表を今見返してみると、なかなかのメンバーが名を連ねている。当時ダービー最有力といわれ、本番はDai Jinの3着に沈んだものの、その後古馬Gr.Iドイツ賞でも2着に入ったStorm Trooper。ダービー最終便であるブレーメンのGr.IIIを制したWild Passion。いまだ未勝利ながら、ダービーでは果敢に逃げ、淀みないレースを演出したPalmridge。もっともStorm Trooperは直前に出走を回避し、人気薄のOmandoがWild Passionを抑えて波乱となる。結局はやや大味なレースであった。それでもこのレースは、私の記憶に印象深く刻まれている。それは他でもない。このレースに出走していた栗色の唯一の牝馬、Royal Fantasyのためだ。
 最後の直線コース、Wild PassionとOmandoが激しく競り合う後ろで事件は起きた。Royal Fantasyの栗色の馬体が外埒に向かって大きく揺れ、その背中らから騎手が振り落とされたのだ。このハプニングに馬は戸惑うものかと思いきや、その時彼女は、まるで重圧から解放されたかのように、軽やかな脚で外埒沿いをパーッと駆け上がってきたのである。それはあたかも、両手を広げ、満面の笑みで草原を駆けてくる少女のように。彼女は必死で競り合う男馬たちを一瞬に抜き去ると、爽やかな笑顔を振りまき、先頭でゴールを駆け抜けたのだ。
 観客たちもまた、その彼女の屈託のない姿に笑顔で応えた。もっともそれは、失笑の笑みであったが…。振り落とされた騎手Czacharyは、この時かなりの重傷を負い、しばらくレースに復帰できなかった。彼にとっては、悪夢のような出来事だったろう。だが、彼には申し訳ないが、その時の光景は私にとって、なんとも微笑ましいものであった。
 しかしその後、彼女のそんな屈託のない走りは影を潜める。騎手を振り落とすほどの奔放な走りを抑えるため、その後手綱を握ったHelfenbeinは、レース中彼女を馬群の内側に押し込めたのである。これでは、両手を広げるように気持ち良く走ることができない。3歳女王決定戦ディアナ賞のトライアルレースでは、最後によく追い込んではきたものの、不完全燃焼の5着。しかしそれでも陣営は、Royal Fantasyを果敢に本番へと向かわせた。が、その日は彼女にとって最低の一日となった。
 第1レースが始まった頃、空は雷雲に覆われ、競馬場にはバケツの水がひっくり返された。雷様はバケツが空になると、次の雲を手繰り寄せ、再び水をぶちまける。それが数回繰り返され、メインのディアナ賞を迎える頃には、コースはすっかり水浸しになっていた。スタート前、空は随分落ち着いてきたが、それでもまだ雫は舞い落ちていた。
 そのような最悪のコンディションの中、若き乙女たちは渋々と順にスタートゲートへ収まっていく。だがそこに、最後まで頑としてゲートに入ろうとしない馬が1頭。Royal Fantasyだ。係員たちが必死に引っぱっても、びしょ濡れの彼女は全く入ろうとしない。
 「今日は嫌なの。走りたくないの!」
 しかしそんな我侭は聞きいれられず、彼女は大外枠のゲートへと無理矢理押し込まれた。そしてスタートが切られるも、彼女はまるで走る気なし。レースは1番人気のNext Ginaが、厩舎一丸となった執念の激走で優勝。Royal Fantasyは、そんな熱い光景から遥かに離れた8着に終わった。ずぶ濡れ、泥だらけになっただけ。天真爛漫な彼女には、ただつまらないだけの一日だったに違いない。
 ところで、日本ではこのディアナ賞に当たるオークスがダービーの1週間前に行われるため、その勝者が続けて牡馬に挑戦することはまずない。だがドイツのディアナ賞は、ダービーまで中3週空くため、重要な前哨戦として位置付けられている。前年の覇者Salve Reginaはダービー2着と大健闘し、今年のNext Ginaも4着と頑張った。人間のスポーツ界同様、競走馬においても、女の方が男より身体能力がやや劣る。それゆえ牝馬には、「セックス・アロアンス」と呼ばれる、性差による負担斤量の軽減措置が基本的になされる。だがそれでも、牡馬の一線級に入って互角に戦える牝馬は稀だ。Salve ReginaやNext Ginaは、勝利にこそ届かなかったものの、傑出した牝馬であることを証明するには十分な戦績なのである。
 しかしドイツ競馬界がダービーで盛り上がっていた頃、そんな華やかさとは無縁のまま、Royal Fantasyはノイスにある自厩の寝藁で時を過ごしていた。思うように走れないことへの不満。鬱々した気分で、馬房の窓から空を見つめていたのだろうか。そんな彼女に、トレーナーのSteinmetzは課題を与えた。70歳の老調教師は、彼女の潜在能力を確信していた。が、やはり無邪気な少女のままでは通用しない。そこで彼が与えた課題とは、スタート前の落ち着き。即ちゲートへ素直に入り、静かにスタートを待つ余裕である。落ち着いたスタートから道中を無理なく走り、ラストで一気に力を解き放つのだ。Steinmetzは特別に専門家を招いて、Royal Fantasyにゲート入りの練習をさせた。その時の彼女の表情はどのようであっただろうか。最初は愚図っていた顔が、徐々に落ち着いた美しさを身に着けていったのではないか。私にはそんな姿が思い浮かぶ。
 ダービーの祭が去った翌週、これといった注目レースもないケルン競馬場に彼女は現れた。よくよく思えば、彼女はいまだ一度も勝っていないのである。Steinmetzは、まずは無理をせず、3歳未勝利戦へと彼女を送った。ここには男馬も集まっていたが、大胆にディアナ賞へ挑戦した戦歴を持つ彼女は、1番人気に押された。7月の青空の下、彼女は落ち着いてゲートに収まり、そしてスタート。そこで無理なく後方に控えれば、Steinmetzとしては十分だった。だが鞍上のHelfenbeinは、またしても彼女を馬群の内側へと入れる。最後の直線で見事に追い込んできたものの、4分の3馬身差の2着。内に包まれていた分、追い出しのタイミングが遅れたのは明らかだった。この後間もなく、SteinmetzはHelfenbeinとの専属騎手契約を解消する。Helfenbeinは、ドイツでは常にリーディング上位に名を連ねるベテラン騎手だ。彼との関係も長かっただけに、契約解消がRoyal Fantasyの騎乗に関わることを否定しないこの老調教師は、彼女にそれだけ並々ならぬ期待をかけていたのである。
 だが、その後彼女のパートナーは定まらず、毎回違う誰かがその背に跨った。それでもSteinmetzが騎手たちに与えた条件は同じ。
 「手綱は長く持ったまま、後方外めを走ればいい。」
 気持ちよく走りさえすれば、彼女は必ず最後に伸びる。そう確信していたのだ。そして大人の表情を身に着け始めた彼女は、まさしくその期待に応えた。
 再び3歳未勝利戦に臨んだRoyal Fantasyは、圧倒的1番人気を背負って最後方を進み、キャンターのままゴボウ抜きの5馬身差で圧勝。その勢いのまま、ブレーメンの牝馬特別戦に歩を進める。そこには牡馬相手だと力及ばずも、牝馬同士なら決して侮れない姉馬たちがいる。大きく離れた人気薄の2頭を除けば、Royal Fantasyは7頭立ての5番人気。決して高い評価ではない。しかし彼女はそんな評価を吹き払う。後方外めを落ち着いて進むと、直線で一気に加速し、姉馬たちを抜き去った。もう牝馬同士の器には収まらない。彼女は次なる舞台に、牡馬たちへの挑戦を選ぶ。
 10月5日ドルトムント。数日間しとしと降り続いた長雨のせいで、この日の馬場状態は重。厚い雲の隙間に時折青空が覗くものの、基本的にはすっきりしない天気だ。舞台は伝統の3歳クラシックレース最終戦セントレジャー。2800mの長距離レースに、スタミナ自慢の牡馬たちが集まる。牝馬が牡馬に対抗する際、スタミナ勝負よりスピードと瞬発力を求められる短距離戦の方が、全体的に成績がよい。それゆえRoyal Fantasyの挑戦は、普通以上に大胆なものといえる。
 だが実は、このレースの1番人気は、やはり牝馬のDiscreet Brief。英国からの挑戦者で、地元の長距離重賞制しての参戦であった。本国ではそれ以上の勲章を望み難いため、格下扱いのドイツでクラシックのタイトルを奪いに来たのだ。こういう余所者を、私はあまり応援する気になれない。時に例外の外国馬もいるが、この日はドイツの馬たちが主役を演じることを素直に望んだ。
 そんな私は、Wild Passionの応援を早くから決めていた。デビュー戦で、空馬となったRoyal Fantasyに抜き去られた、あのWild Passionである。彼はその後、不器用ながらも粘り強い走りで良績を重ね、既述の通りダービー前哨戦であるブレーメンの重賞を制覇。本番ではローテーションの無理がたたり、全く見せ場のないまま惨敗したが、その後一息入れた前走では、前年のセントレジャー覇者Liquidoに最後まで食い下がる2着に健闘した。黒鹿毛ながらどこか野暮ったく、顔も少々でかいWild Passion。ズブくて切れる脚がなく、先行して粘るものの、惜しいところで勝利を逃してしまう。そんな不器用なところが私は好きで、スタミナと根性だけは誰にも負けない彼に、クラシックホースという勲章をあげたかった。だからパドックでRoyal Fantasyが私の前にきた時、「君のことは次回応援するから。」と、彼女に小さく声をかけたのだ。
 さあ、いざ10頭の挑戦者たちが本馬場へ。あたかもそれに合わせるかのように、空を覆っていた厚い雲が退き、競馬場の真上に大きく青空が広がった。夕方5時、10月の太陽は既に西へと傾き、斜めに差し込む黄色い光は、雨上がりの緑の絨毯をキラキラと照らし出した。馬たちはその輝く絨毯に長い影を落としながら、650mという長い直線コースの入口の、更にその奥にあるスタートゲートへと駆けていった。
 ゴール傍らにいた私には、スタート地点の彼らは豆粒のようにしか見えない。それでも特に問題なく、皆比較的スムーズにゲートへ収まったようだ。もちろんRoyal Fantasyも。そしてゲートが開いた。遥か遠くから、彼らはゆっくりとスタンド前へとやって来た。Wild Passionは前から3番手。彼らしい位置取りだ。人気の英国馬Discreet Briefは中段外めを走る。そしてRoyal Fantasyはその真後ろに。後ろから2、3頭目だ。鞍上のHammer-Hansenは緩く手綱を握り、人馬ともに落ち着いている。Steinmetzの理想通り。最後方には人気薄のWestern Devilが淡々と追走。名手Starkeは、後方一気を狙っているのだろう。そのような体勢で馬群は我々の前を通り過ぎ、向正面へと走っていった。
 ドルトムント競馬場は内馬場がゴルフ場になっており、ご丁寧に丘まで設けてあるため、向正面がまるで見えない。実況だけを頼りにレースの流れを追うが、体勢は大きく変わらないまま最終コーナーへ向かった。そしてゴールへと向かう長い長い直線。先導していた2頭が脱落していくと同時に、Discreet Briefが先頭へ抜け出した。その彼女に、先行馬としては唯一Wild Passionだけが食い下がる。
 「Wild Passion、頑張れ!根性比べならお前は負けないぞ!」
 そう私が心の中で叫んだ時、彼の黒い体の右側に、明るい栗色が光り輝いた。Royal Fantasyだ。デビュー戦以来の再会となるWild Passionの傍らを、今日は騎手と一体になって、しかしあの時と同じように彼女は駆け上がってきた。両手をいっぱいに広げ、満面の笑みで草原を駆けてくるように。光に照らされた緑の絨毯を走る彼女は、しかしあの時より少しレディの美しさを湛え、眩しいほどに輝いていた。そして太陽の光に包まれながら、彼女は先頭でゴールを駆け抜けていったのだ。
 Wild Passionは、Discreet Briefを競り落したにも拘らず、Royal Fantasyを追いかけやって来たWestern Devilにも交わされて3着。でもきっと彼は、再び出会った彼女の美しさに思わず息を呑み、つい脚を止めてしまったのだろう。無邪気だった少女から美しく変わったレディに、無骨者の彼は恋をしてしまったかもしれない。そう思いたくなるほど、この時の彼女は眩しかった。
 ウィナーズサークルでは、老調教師Steinmetzが待っていた。彼は光の中を帰ってきたRoyal Fantasyを、まるで可愛い孫娘を見る祖父のような笑みで迎えた。私はパドックで彼女にかけた言葉を思い出し、「参ったな…。」といった苦笑いを浮かべつつ、その光景に幸せを感じたのである。そんな私に、彼女はチラリと視線を送った。その瞳には、屈託のない可愛さが残っていた。私はその瞳に、更なる喜びを覚えたのであった。